KING GEAR Archive VOL19 (2018/08/14)

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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.19『釜本選手のスーパーカップ編』

残念ながら56年ぶりのメダル獲得はなりませんでした。
いつもの五輪であれば、釜本さんたちの辛口コメントが聞けた気がしますが、パリ大会では、68年銅メダリストの方々のメディアへの露出が、3年前の東京大会に比べてずいぶん減った気がします。
私が調べて見つけたのは小城さんの動画ぐらいですが、やはりずいぶんお年を召されたなあと感じます。


往年のサッカーファンにとって、昭和の日本サッカー界の象徴はやはり釜本さんだと思います。60年代から80年代までの現役時に数多のスパイクを履かれたと思いますが、個人的に最も印象深い釜本さんのスパイクがアディダス・スーパーカップです。


(スパイクブログ始めました。https://maradonaboots.com/

70年代にスポーツに目覚め、野球しか知らない当時の私にとって、何となく釜がつく名称(釜本、釜石)が、冬のスポーツでは有名みたいなイメージがありました。 

その後、元旦に決勝があるサッカーの天皇杯予選は春頃から全国各地で始まり、サッカーもラグビーも1年中やっていることを大学生になって知りました。 

巻頭写真は日本リーグ200得点目のゴールシーン(81年)で、アシストしたのは楚輪選手でした。この時、釜本さん(以下、御大)はスーパーカップを、楚輪選手はワールドカップウィナー(以下、ウィナー)を履いていました。   

アディダスもプーマも不思議と80年代初めまでは西ドイツ製固定式スパイクのカンガルー革モデルがなかった気がします。 ウィナーはアディダス固定式トップモデルとして76年頃デビューしました。
訂正:70年代中頃にWM-FINALというカンガルー革製の固定式がありました) 

図1左上は79年ぐらいの広告写真で、アッパーは上質な牛革(アディカーフ)で、当時ワールドユース日本代表選手など、多くの名選手が使っていました。 この頃の取替え式トップモデルは8話で触れたカンガルー革製のワールドカップ(78)(図1左下)でしたが、ウィナーのアッパーは革も構造もワールドカップとは別物です。 

80年にはウィナーのアッパーに当時新開発の2マテリアルソールがついたスーパーカップがデビューしました(中上)。 その後、国内では83年頃にカンガルー革のコパムンディアルが発売され(中下)、ウィナーはカタログから消え、そのしばらく後にスーパーカップも廃盤になりました。 

80年当時、2色の固定式ソールはスーパーカップしかなく、とても一般プレーヤーが気軽に買える価格ではなかったため、憧れの存在だったようです。 

しかし、一説ではデビュー当初の2マテリアルソールの黒スタッドは取れてしまうことがあったそうです(右)。

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図1 ウィナー(左上)、スーパーカップ(中上)、デビュー当時のコパムン(中下、なぜかシュータンマークがない)の広告。 同時期の取替え式ワールドカップ(左下)と同じアッパーの固定式スパイクはありませんでした(挿入写真はつま先部分)。
右上は黒スタッドがとれたスーパーカップを履く望月達也選手(清水東高校)。清水3羽烏の2年先輩で、当時の高校NO.1選手。
右下はスーパーカップ(広告より)と、80年代のコパムンのスタッドの比較。スーパーカップ(左)は少しくぼんでいたようです。   

私がスーパーカップの存在を知ったのは御大のスパイクとしてではなく、82年頃から応援し始めた日本代表(全日本)選手が履いていた時です(図2)。

Thumb efbc93図2  82年アジア大会(インド)でベスト4になった日本代表。国内でコパムンがまだ出回っておらず、固定式はスーパーカップを履く選手が多かったと思います(左の金田選手、木村選手、右の前田選手)。
取替え式はこの頃登場した3マテリアルソールのスパイクを履く選手がいました(尾崎選手)。右お二人のスパイクは、青マークは同じでもシュータンの長さや形状が結構違います。   

ところで、ウィナーやスーパーカップの後継スパイクとして登場した名品コパムンは、現在まで35年以上生産されています(2018年当時)。 

発売当初に購入する余裕も意思もまったくありませんでしたが、カンガルー革が牛革より安い(図1)のはインパクトがあったと思います。そのためか、あっという間にウィナーやスーパーカップを履くトップ選手はいなくなり、コパムン使用率が激増しました。 

かくして、古いコパムンですらなかなか見つからない現在では、わずか数年しか生産されなかったウィナーやスーパーカップは記憶からも消えつつあり、ほぼ幻の存在になってしまいました。 

最近、数少ないウィナーの現物画像を見ることができるWEBサイトが閉じられてしまったようで、非常に残念です(図3)。
(一度復活されたましたが、2025年2月現在はまた休止しています)

Thumb efbc94図3 adidas-worldに投稿されたウィナーの写真。右の持ち主の方は3種類のウィナーの他、それ以前の貴重なアディダススパイクを多数お持ちだったようです。
左はオーストリア製のウィナー。こちらでも引用されています(http://king-gear.com/articles/152)。   

さて、個人的に御大のスパイクはアディダスのイメージがとても強いのですが、当然ですが、プーマやアシックス(オニツカ)を履かれていたこともあります。 

また、取替え式はシンプルな1色ソールがお好きだったようで、すでにアディスーパーソールのモデルが登場していた頃も、旧型を使われていました。 

しかし、同じ頃行われた世界選抜での試合ではワールドカップを履いて、アシストを決められました(図4)。  

Thumb efbc95図4 代表チーム(左上)や入団した頃のヤンマーでもアディダス以外のスパイクを履かれています(上)。 左中は80年に選手兼監督で優勝した時で、1色ソールの取替え式を履かれています。旧型のワールドチャンピョン(左下)ではないかと思います。 80年世界選抜での御大(18番)。右はスパイクメーカーがわからないクライフ選手。御大の偉大さを感じます。開催地はバルサの本拠地で、昔はノウカンプと言われていました。  

御大は80年シーズンの後半からスーパーカップを使用し始めたようで(販売は81年春頃から)、当時のサッカー選手としては大ベテラン(36~37歳)でしたが、 80年、81年にリーグ最優秀選手になられました。 

しかし、82年の2度の大けがで、その後長期離脱を余儀なくされます。リハビリ期間中にはコパムンを使われていることもありましたが(図5左)、復帰した試合(83年度天皇杯)では再びスーパーカップを使用されました。 

84年元旦の決勝で日産に敗れ、御大は現役引退されましたが、その試合でヤンマー、日産のほとんどの選手はコパムンを履いていました。

しかし、御大と楚輪選手は時期的に既に廃盤だった以前と同じモデルをお使いでした(右)。  

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図5 復帰に向けた練習中の御大(左)、現役最後の試合(右)。楚輪選手はウィナー、長谷川選手はコパムン、御大はスーパーカップでした。冬枯れた芝が昭和の国立ですね。  

84年8月、当時サッカーとしては異例の御大の引退試合(日本リーグ選抜VSヤンマー)が開催され、ペレ選手、オベラーツ選手が特別参加されました。最近の引退試合ではありえないような、かなりガチな内容だったと思います。 

この試合でも巻頭の200得点の時のように、ウィナーの楚輪選手のアシストで、スーパーカップの御大が得点されました。他のヤンマーの選手はコパムンだったと思います。

 ペレ選手はプーマのプリメイロ6話をご参照ください)を、オベラーツ選手はコパムンに似ていますが、白一色のアディパンソールのモデルでした(図6)。 

15話で触れましたが、西ドイツ選手はこの頃の2マテリアルソールが嫌いだったのかもしれません(強度の問題?)。

Thumb efbc97 図6 試合前は和やかなムード(左上)でしたが、試合中は御大も王様(ユニフォームもプーマ)も真剣そのもの(上中)。しっかり先制点を決める御大(右上)。 この試合はスパイクオタクにとってたまらないモデルばかりでした。オベラーツ選手(左下)。長谷川選手と楚輪選手(下中)、御大(右)。スーパーカップのモデル名(コパムンと違って1行)がかすかに見える貴重な写真です。それほど長くないスーパーカップのシュータンをきれいに折って使われるのが御大の特徴だと思います。 「靴は何でもええねん」(http://king-gear.com/articles/584)という御大ですが、少なくとも晩年はかなりこだわっておられたのかもしれません。   

古いスパイクに興味を持ち始めて数年になりますが、ウィナーをお持ちの方はおられても、スーパーカップは98年発刊の雑誌に掲載された御大の実使用品の写真しか見たことがありません(図7右上)。というわけで、(無謀にも)復元してみました。 

ここでネックになったのはベースにする同じアッパーのモデルがないことでした。現在のコパムンとワールドカップのように、ソールの違いだけでアッパーは同じモデルが多いのですが、前述の通り、ウィナーとスーパーカップはアディカーフ製で、ステッチなども独特です。

しかし、よく調べてみると、おそらく日本では発売されなかったワールドカップII(図7左上)という取替え式モデルが、スーパーカップのアッパーに近いことがわかり、運良く入手できました。

ただ、ライン等は黄色で、シュータン等も異なるタイプのため、これをベースに、ソールも含めていくつかの部品取りスパイクを用意し、リペア工房アモールさん(https://ameblo.jp/lanbook)のご協力で完成したのが図7下になります。一応同じアディカーフなので、雰囲気は感じられます。

Thumb efbc98図7 復元のベースとなったワールドカップII(左上)。ソールが劣化しており、入手後即スーパーカップ復元計画を思いつきました。右上はおそらく「adidas sports shoe museum」に寄贈された巻頭写真時のスーパーカップ。その後この博物館はリニューアルのため閉館になったそうですが、現在はどうなったんでしょうか?ぜひとも日本にもう一度戻してほしいスパイクと個人的には思います。下は復元後です。マークは中古のコパムン25周年モデルから剥がして用いました。  

多分、スーパーカップのことをこれほど長々と言及する輩は今後現れないかもと思い、いつも以上に長文になってしまいました。 

この回をお読みいただければ、16話の最後に載せたカブリーニ選手と、オリアリ選手のスパイクの違いも多少お分かりいただけるかと思います。   

さて、次回は珍しく国産メーカーについて書きたいと思います。 

(写真は当時のサッカーマガジン、イレブン、ナンバー、「ストライカーの美学(釜本邦茂写真集)」及び「アディダス・ブック」などより引用)     


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神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考


2025年8月10日に釜本さんが逝去されました。
ご冥福をお祈りいたします。

残念ながらご存命のうちに「スーパーカップ」に出会うことができませんでした。

それより日本リーグ200得点の記念スパイクは今どこにあるのでしょうか?

お別れの会などに何気に飾られていたら嬉しいのですが…。

上記コラムで、スーパーカップのレプリカの作製を試みました。

その後、ソールがないワールドカップウィナーが手に入ったので、当時物の黒スタッドソールをつけたこともあります。

いつかは釜本さんが愛した本物が見たいものです。