Made in Japan
こちらのコラムで紹介した東海大一高校イレブンの特別モデルです。
国見高校の選手権初優勝時の試合でも使用されていました。
現在のように芝の状態がよくなく、スパイクが泥だらけなのが残念ですが、芝のグランドでプレーできること自体があこがれの時代でした。
さて、スパイクのことはいいとして、このころのボール事情について少々…。
今のように、ボールがピッチから出たらどこからでも次のボールが渡されるようなシステムではなく、このころの(少なくとも)高校・大学は各チーム1個ずつ、試合用のボールを審判(今はレフェリーか)に出し合って試合をしました。
基本的には新品に空気をパンパンに入れて渡すのですが、試合前に審判がかたさを確認して、(たぶん)かたい方をキックオフ時に使っていたと思います。
よっぽど遠くに蹴りだしてしまい、取ってくるのにものすごく時間がかからない限り、同じボールで試合を続けていたと思います。
僅差でリードしていて、残り時間が少ない時にピッチから出たボールは拾いに行かないよう教育されました。
さて、国見対東海大一の試合のボールは少しですが青い文字が見えるので、おそらくこちらのボールだったと思います(ヤスダしか青の文字はなかったはずなので)。
コラムを書いているころに、たまたまメルカリに出品されていたヤスダのボール。あまりにもタイムリーだったので、即買いしてしまいました。
ずっと箱の中でこの状態だったそうです。
正直、空気が入るか不安でしたが、一応丸くはなりました。今のボール用のニードルは使えず、専用のものが付属していました。空気抜きも専用です。
ただ、長年の保存でついてしまったしわはそのままですね。
当時でもちゃんと丸くなるように、縫い目付近の革を揉まされた覚えがあります。
ボールがあんな小さな四角い箱に入って売られているなんて今の若い人には理解できないだろうなあ。
ところで、昭和のサッカーの試合球で一番のシェアを誇っていたのはこちらだと思います。
ボールはころがっているので、なかなか表示がはっきり見える画像を探すのは難しいのですが、タイミングよく富越さんがこちらのすばらしい画像をアップされていました。
90年の天皇杯だそうですが、このころもまだ右向きプーマがあったんですね。
この画像を見てすかさず思い出したのがこちら。
まだ大榎選手が大学生のころの84年。手にしているのはアディダスのタンゴ。
タンゴは78年W杯のころデビューしましたが、1個2万円ちかくしました。国産の手縫いボールは8千円(それでもかなり高い)ぐらいでした。
タンゴについてはいずれまたネタにしたいと思います。
話をピーコックに戻しますと、国内の主要大会ではほぼ黒白のボールが使われていましたが、それ以外のデザインが使われた試合で印象深いのがこちらです。
いずれも釜本さんの試合です。上は現役最後の84年天皇杯決勝で、下は引退試合です。白い方は、ナイター用に各メーカーが販売していたので、もしかしたらピーコックではないかもしれません。
黒白のピーコックもたまーにオークション等で出品されているのを見たことがありますが、他のデザインは見たことがありません。
83~84年ごろ、タンゴを含めた舶来品(このころは人工皮革が主流になりつつあったと思われます)におされはじめていた国産・天然皮革ボールメーカーがこんな広告を出していました。
天然皮革製は新品の時はいいのですが、その後はだんだん形がいびつになるし、水を含むと倍ぐらい重くなってヘディングなんて怖くてできないのが常でした。
人工皮革品はいつも丸いし、よく飛ぶので嫌いではなかったんですが、なんとなく避けられていたと思います。
(ただ、あのころからどこに飛んでいくかわからないことがあった記憶があります。下手だっただけか?)
世の中、スパイクコレクターよりもボールコレクターの方が多いと思いますし、アディダスの当時物のボールはおそろしいほど高額ですが、昭和の日本産の天然皮革ボールを集めるのはかなり困難だと感じます。
最後に、昭和の高校選手権も主流は黒白ボールでしたが、私が高校時代の決勝戦は変わったデザインのボールが使われていました。
今や小嶺監督なみに有名な高校世代の育成者になられた平岡監督ですが、帝京高校主将の時の決勝戦(62回大会、対清水東)のボールはおそらくタチカラ製です。
前年61回大会の決勝戦も同じボールだったようですが、それ以降は見たことがありませんでした。
ボールも奥が深いですね。
(2022年1月29日)