382 Onitsuka Tiger München DX


Made in Japan

こちらのコラムで少し紹介したモデルです。


かかとを見ないとモデルはわかりません。

名前からするとミュンヘン五輪のためのモデルに思えます。

ミュンヘン五輪は72年で、私は7歳でしたから「オリンピック」の意味すらよく知らなかったと思います。

後から調べたことばかりで申し訳ないですが、手持ちのサッカー雑誌でミュンヘン五輪予選の日本代表のスパイクについて情報を探してみました。

1971年11月号 表紙は永井選手、上田選手、釜本選手。スパイクはプーマに見えます。

この号の表紙をめくった見開き2ページの広告がこちらです。

大きすぎて全体をスキャンできませんでしたが、右下にはまだDXしか載っていませんでした。

さて、ご存じの通り、68年メキシコ五輪で3位だった日本代表ですので、その次の五輪ぐらいアジア予選を勝ち抜いても不思議ではなかったと思います。ただ、結果は…


3位で予選敗退でした。その後は96年まで本戦出場できませんでした。一度出れなくなると大変そうですね。今の代表は本当にスゴイと思います。

この予選はすべての試合が韓国で行われたそうです。たしかメキシコ五輪予選は東京開催でしたので、そのころのやり方なんでしょうが、今では考えられないですね。

開催国の韓国もマレーシアに不覚をとり、五輪出場を逃してしまいました。

韓国も64年の東京五輪に出場してからは、88年の自国開催まで本戦出場はなく、それなりに苦しい時代があったんですね。

さて、その予選の日本代表ですが、表紙のようにプーマ(らしき)のスパイクで戦った試合がこちらです。

宿敵韓国戦の杉山選手(白)。


台湾戦の釜本選手(このシュートシーンの画像はよく見ます)。

マレーシア戦も釜本選手はプーマだったようですが、大勝したフィリピン戦は

ヘディングシュートを決める釜本選手のスパイクは3本線のようです。

80年代は年によって代表のサポートメーカーがアディダス、プーマ、アシックス(オニツカ)の3社で入替わっていましたが、70年代はどうだったんでしょうか?

それにしても短期開催の同じ大会中に、代表選手がちがうメーカーのスパイクを履くというのは80年代ではなかったと思います。

ただ、同じ号の裏表紙のヤスダの広告では

3本線もプーマラインもコピーできたおおらかな時代なので、もしかしたらヤスダがサポートしていたかもしれません。

ただ、オニツカのスパイクではなかったのは確かなようです。

結局、このモデルがいつ発売されたかの細かい情報はわかりませんでした。

おまけの画像で申し訳ないですが、このスパイクは入手時に交換用のスタッドもついていました。

70年代のサッカー雑誌は手持ちが少ないので、また何かわかれば追記したいと思います。