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RIP K. Kamamoto

英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.87 「釜本選手のスパイク

日本サッカー界の至宝、釜本さんが永眠されました。

巻頭のサインは数年前の講演会後に拙書に書いていただきました。
あの時はまだまだお元気で、現役時代の貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。
昭和のサッカー界の大スターのご冥福をお祈りいたします。


今回も、もしまだKING GEARのコラムを担当していたらということで、追悼を込めて書かせていただきます。

一度、KING GEARで釜本さんのスパイクについて書いたことがあります。
あの時はスーパーカップにかなり特化した内容で、所有スパイクも微々たるものでしたので、今回はもう少し他のスパイクにも着目できればと思います。

釜本さんの代表デビューしたころに開催された64年の東京五輪は、黒一色のスパイクでした。

アルゼンチン戦に勝利した川淵選手(日の丸右端)、宮本選手、釜本選手らのスパイクは黒一色でメーカーなどは存じ上げませんが、それについてはいずれ触れたいと思います。(画像元

その4年後、歴史的快挙(銅メダル、得点王獲得)となった68年メキシコ五輪では、

釜本選手をはじめ、ほとんどの日本代表選手は3本線の入ったスパイクを使っていました。
(画像元はフォート・キシモト
左でも利き足と同じような美しく力強いフォームです。

60年代のアディダス(他のメーカーも)のソールは青のプラスティック製だったり、黒の革っぽい素材だったと思いますが、この時はすでにソールは白色だったようです。
また、60年代のモデルにはだいたい付いていた、かかとのプルストラップもあるようです。

個人的にこの年代のスパイクの知識がなく、どんなモデルか思い当たらなかったのですが、

68年の五輪開催前のサッカーマガジンの広告にそれらしきモデル(WORLD CUP)が載っていました。
また、名品「2000」は60年代後半から存在していたことをあらためて知りました。

このころのアディダススパイクの広告画像でソールが写っているものがほとんどないのですが、

その後、「ペラーダ」で知られるミナミスポーツの広告に、当時の「WORLD CUP」を惜しげもなく履いて撮影した画像があり、ソールの形状やそれまでの革製ではなく、金属とプラスティックでできた新型スタッドもとてもよくわかります。
同時期の国産スパイクのソールと比較すると、圧倒的にクオリティが高そうです。

おそらく、このモデルを履いて釜本選手たちはメキシコ五輪でプレーされたと思われます。また、なかにはかかとに白い部分があるモデルの選手もおられ、「2000」も使用されていたようです。

68年五輪後の釜本選手は、69年ごろはアシックス、70年ごろはプーマのスパイクを履いておられたこともありました。

そして、70年代に入り、名カメラマン富越さんが、釜本さんも撮影され始めます。

71年の西ドイツ遠征での釜本選手。画像のクオリティが素晴らしく、スパイクもとても鮮明に映っています。

時期、デザインや光沢などから「COSMOS」ではないかと思われます。

同じころでもプーマのスパイクの時もあったようです。

固定式にも見えますが、かかと4本スタッドのころの「KING Pelé」かもしれません。

さらに、釜本選手のプーマスパイクといえば、

72年、ヤンマー日本リーグ初優勝を決定した試合はプーマでした。このころは6本スタッドの「KING Pelé」だったようです。70年W杯で世界一となったペレ選手がプーマを履いていたこともあり(多少疑問もありますが…)、ネルソン吉村さんや他のブラジル人選手がプーマを履き始め、その影響もあったかもしれません。


モデル名はよくわかりませんが、それにしても富越さんの画像はすばらしい…。(こちらは71年です)

同じ72年は、こちらでもご紹介しましたが、

WORLD CUP 74も使っておられました。
スパイクよりもこの太もも…。スゴイ…。
画像の鮮明さもスゴイです。

釜本さんの足といえば、印象的な富越さんのこちらの写真

こちらはふくらはぎがすごすぎます。代表選手の中でも別格の足だと思います。

さて、70年代中頃からの釜本選手は、アディダスのスパイクのイメージしかなく、

足入れ部分が特徴的な「WM-TOP STAR」を使っていたのが75年ごろです。(画像元

KING GEARで釜本さんのスパイクについて書いた2018年ごろは、70年代のアディダスの名品は見たこともありませんでした。
しかし、私にとっての「先生」のおかげで、釜本さんも愛用したいくつかのモデルを実際に触れて、紹介することができるようになりました。
あらためてお礼申し上げます。

さて、代表選手としては晩年になる76年ごろからは、

固定式の割合が増えだした気がします。時期的にはデビューしたころの「WORLD CUP WINNER」だったと思われます。(画像元

ヤンマーではまさに円熟期で毎試合1得点(以上?)ぐらいを決めておられたころです(74~78年ごろ)。

とにかく迫力満点かつ美しいフォームです。ピーコックのボールがビビッている気がします。

80年代に入り、プレーイングマネジャーとしても最優秀選手(80、81年)を獲得され、JSL200得点も達成されたころのスパイクは「スーパーカップ」でした。

不運にもその後の大ケガで、2年ほどはプレーできませんでしたが、ケガさえなければもう2、30得点ぐらいは増えていたでしょう。

そして、84年元旦の天皇杯決勝、対日産戦で現役引退され、

その年の夏にペレさん、オベラーツさんとともに引退試合でプレーされました。

84年ですので、日産の選手も、ほとんどのヤンマーの選手もすでにコパムンディアルを履いていますが、釜本さんは、おそらく現役時代最晩年の活躍を支えたスーパーカップにこだわって、コパムンデビュー後に絶版になってしまったこの時期でも使い続けておられたようです。

スーパーカップと釜本さんの貴重な画像も富越さんは撮影されています。

偉大な足跡を残され、ケガとも戦った釜本さんの足とスーパーカップ。
すごいショットです。

富越さんは、雑誌ナンバーが初めてサッカーを特集した107号で、「釜本選手がいたから、私はカメラでメシを食えたようなものです。」とおっしゃっています。

釜本さんのサッカー選手としての偉大さについてはたくさんの方が詳しく語られ、これからも風化することはないでしょう。
しかし、釜本選手のスパイクについては、他のレジェンド同様、忘却の一途を辿るのみと思われます。

せっかく素晴らしい画像が残されているのですから、日本の偉大なストライカーのスパイクをこれからも探求し、語り継いでいく所存です。

(2025年8月22日)

 

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